ー エピソード16 サイン ー
「せ、先輩!」
吉羽はコーヒーを飲んでいたが、田中が飛び込んできてもごく普通の表情でゆっくり
と味わっていた。
「先輩ってば!」
「うるさいな、こっちはのんびりとした空気を味わっているというのに」
「それどころじゃないっすよ!浅倉先輩がー」
「ふーん」
「凄いんですよ、もう血まみれで」
吉羽はカップを置いた。
「ほう、あいつも怪我をするのか、いっちょまえに」
「じゃなくて、相手の方!」
「いつものことじゃないか」
「もう・・・」
「いいから、暴れさせとけ。そのうち落ち着くだろ」
「何言ってるんすか」
吉羽はすくっと立ち上がると、ぽん!と田中の両肩に手を置いた。
「君は恋をしたことがあるか」
「・・えっ?」
田中は思いがけないセリフだったのか、目をパチクリさせた。
「いいかね、田中くん。考えてもみたまえ、愛する女が目の前で死んだ。しかも自分
をかばって。どう思う」
「どう思うって・・・辛いです」
「だろ?」
吉羽ははあと目を閉じた。
「あいつはきっとあまりの痛手に狂ってしまったのだ。放っておこうじゃないか」
田中は考えた。こう言ってさも同情しているように聞こえるが、当回しにあいつから
避けろ、と言っているのだ。とばっちりを受けるのはごめんだからな。そう心の中で
思っているに違いない。
「・・先輩ってやっぱり”黒い”な」
「あ?何か言ったか?」
「い、いえ、何でもありません」
「さて、昼飯食いに行くか」
吉羽は立ち上がり、田中も付いて行った。
「腹が減っては戦はできぬ、ってな」
階下へ降りた2人は、ロビーが何やら騒がしいのに気づいた。
「何だ?」
「あっ・・・」
何人かの刑事らのいるところに一人の男がうずくまっていたが、やがて周りにしがみ
ついた。
「た、助けてくださいよ~・・殺される・・」
しかししがみつかれた刑事は困惑した表情だ。
するとむんずと手が伸びて男をつかんだ者がいた。思った通り城嗣だ。
「逃げるな!まだ終わっちゃいねえ!」
男の顔はあざだらけで流血している。なので吉羽はあ~という表情をした。
「・・・確かに傷だらけだな」
「まだやってたんだ」
「しかし、あれじゃ命がいくつあっても足りんだろ。犯人とはいえいくらなんでもか
わいそうだな」
吉羽はそう言うと歩き出した。
「・・あっ!先輩ー」
吉羽は輪をかき分けるように進んだ。
「まあまあ、警部補殿。そう怒ってばかりいると血圧が上がりますよ。その男はこの
私がーううっ!」
吉羽は鼻を抑えて顔を背けた。田中は顔をしかめた。
「・・・だから近づいちゃダメだって」
「早く言えっ!・・・イタタ・・くそっ、思いっきり殴りやがって」
そんな様子を見ていた健一は近づいて行ったが、城嗣は彼に気づくと、犯人の男を乱
暴に離し、その場を立ち去った。
「ジョー!どこ行くんだ、待てっ」
すると男は健一の脚にしがみついた。
「旦那~」
しかし健一は彼を蹴飛ばした。
「うるさいっ」そして周りに刑事らに言った。「早く連れて行け!」
「は、はい」
刑事らは男を連行したが、もうすっかりおとなしくなっていた。乱暴な警官に懲り懲
りしたのだろう。
「・・ねえ、先輩。鷲尾さんまでおかしいですよ」
田中がそう言って囁くように言うと、吉羽も声を潜めた。
「あいつらは2人で一人前だからな。早く戻ろう。クワバラ、クワバラ」
2人はそそくさと走ろうとしたが、出入り口にダッシュした。昼飯がまだだったの
だ。