『 小さな恋人 』



                  レース場では数台が先を争うように走っていた。
                  爆音が辺りに響き、時々タイヤの軋む音がする。
                  そんな中を1台の青い車が駆け抜けて行った。そして同じように
                  走っている車たちを追い抜いてあっという間に遥か先へと行って
                  しまった。
                  その車を見たドライバーたちはもちろん観客席で見物していたレ
                  ーサーたちはそのスピードと華麗なるテクニックに目を奪われて
                  いた。
                  「やっぱりヤツはすげえな。」

                  一通り走りを終え、その青い車はコースから離れ、所定場所に停
                  まった。
                  しばらくしてドアを開け、出て来たジョーはヘルメットを外すと
                  髪を手櫛で整えた。そして歩き出して彼はため息をついた。
                  「・・・・。」
                  彼の前方には数人の女性たちがまさしく待ち構えるように集まっ
                  ていたのだ。
                  ジョーは少し離れるようにして歩いたが、彼女達は彼に近寄って
                  来た。
                  「ジョー、素敵だったわ、やっぱり貴方が一番ね。」
                  「ねえ、今日は付き合ってくれるでしょ。」
                  ジョーは歩きながらついてくる彼女達に言った。
                  「済まないけど、先約があるんでね。」
                  すると彼女達は色めき立った。
                  「まあ、どこの女(ひと)なの?」
                  「羨ましいわ。ジョーったら、酷いわ、内緒にしてるなんて。」
                  「どうやって貴方の心を掴んだのかしら。」
                  「ただ”彼女”を守ってやりたいと思っただけだよ。じゃあな。」
                  ジョーは女性達をかわしてさっさと歩きだした。

                  施設の敷地内の一角に芝生が植わっている場所があった。
                  ここでは天気のいい日などは寝転んだりくつろいだりしている
                  人でいっぱいになる。
                  ジョーはそこに立つ大きな木の下に来ると、寄りかかった。
                  「やれやれ、あいつらに見つかったら大変だぜ。」
                  彼は上を見上げ、ふっと笑った。
                  「またそんな所に登ったのか?・・一人で降りられねえくせに
                  よ。」
                  そう言って手を伸ばすと、”彼女”はジョーの腕の中に飛び込ん
                  できた。そして彼の胸の中で伸びをして小さく、にゃあ、と鳴
                  いた。
                  なぜ”彼女”なのかと言うと、リボンのついたピンク色の首輪を
                  して、そこに『Luna』と書いてあったからだ。
                  (”Luna”・・”月”か。猫のくせにたいそうな名前だな。)
                  そしてそんなおよそらしくない神秘的な名前を付けるなんて、
                  よっぽど可愛がられているに違いない、と彼は思った。

                  「お前、こんなところに来てていいのか?飼い主が探してるん
                  じゃねえか?」
                  仔猫はそんなジョーの言葉を無視するかのように、彼に甘えて
                  いた。そして彼の指を舐めたり吸うマネをしているのを見て、
                  彼は笑った。
                  「そんな事をしても、そこからは出ないぜ。」
                  やがてジョーは時計を見た。
                  「おっと、こうしちゃいられねえや。(仔猫を芝生に降ろす)
                  始まる時間だ。いいか、もう帰れよ。ここは危ねえから二度と
                  近づくんじゃねえぞ。」
                  じっと彼を見上げている仔猫を見たジョーは、後ろ髪を引かれ
                  る思いで、レースへと戻った。

                  「またあの猫かい?」
                  ジョーの隣にいたレーサー仲間が言った。
                  「見てたのか。」
                  「随分お前に慣れているようだなあ。」
                  「どういう訳か動物に縁があるらしい。あいつ、いつもここに
                  来てるけど飼い主が探しまわってんじゃねえか?」
                  「・・・あの猫なら、だいぶ前からいるぜ。首輪してるけど、
                  どうやら捨てられたらしい。」
                  「・・・捨てられた?」
                  「ああ。色々女どもや他の連中が構おうとして近づくと、逃げて
                  ばっかりいたんだが、どうやらお前には心を開くようだな。」

                  翌日は雨だった。
                  レースは中断になったが、ジョーは会場内にある喫茶店でコーヒー
                  を飲んでいた。
                  時々よく仔猫が来ていた芝生の辺りを見つめていたが、いっこう
                  に現れない。
                  (・・こう雨が降っちゃ、来る訳ねえか・・)
                  しかし晴れた翌日以降も仔猫は来なかった。
                  ジョーは目を閉じた。
                  (・・あんな事言わなきゃ良かったな・・)

                  夕方になった。
                  誰もいない観客席で仲間の練習を見ていたジョーはやがて立ち上
                  がって振り向いた。そして歩き出した彼は、近くに草むらに近づ
                  いた。
                  ジョーはしゃがんでもぞもぞ動いている草をどけ、ふっと笑った。
                  「・・・ったく、心配かけやがって。」
                  ジョーは、喜んでいるのかにゃあにゃあ鳴く仔猫を抱き上げた。
                  「俺のところに来るか?お嬢さん。」
                  仔猫は言葉がわかるかのように彼の胸の中で大人しくなった。
                  ジョーはそのまま歩き出した。




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